1 履 歴
フリガナ ソガ ヨシナリ 性別


 - 年 - 月 - 日
氏名 曽我 良成 男性
ローマ字
氏名
SOGA YOSHINARI
所属 国際文化学部 職名 教授
HPアドレス  
メールアドレス  
最終学歴・学位  1987年3月
広島大学大学院文学研究科博士課程後期国史学専攻研究生・修了
 系・分野・分科・細目表
 人文社会系
分野  人文学
分科  史学
細目  日本史
フリーキーワード  

 2 学歴・学位
年月

事     項

1978年3月 広島大学文学部史学科国史学専攻・卒業
1980年3月 広島大学大学院文学研究科博士課程前期国史学専攻・修了
1986年3月 広島大学大学院文学研究科博士課程後期国史学専攻・単位習修得期退学
1987年3月 広島大学大学院文学研究科博士課程後期国史学専攻研究生・修了

 3 職 歴
年月

事     項

1978年4月 広島市立基町高等学校非常勤講師
1979年4月 河合塾大学受験科非常勤講師
1987年4月 名古屋学院大学経済学部専任講師
1993年4月 名古屋学院大学経済学部助教授
2000年4月 名古屋学院大学経済学部教授
2006年4月 名古屋学院大学人間健康学部リハビリテーション学科教授
2010年4月 名古屋学院大学リハビリテーション学部理学療法学科教授
2015年4月 名古屋学院大学国際文化学部国際文化学科教授
2019年4月 名古屋学院大学国際文化学部長・教授

 5 研究分野・内容
 5-1 研究分野・内容(記述式:350字以内)
日本古代中世の政治史・文化史
中学校高校における日本史教育
大学入試制度研究
 5-2 研究課題(今後の展開・可能性を含む)(記述式:350字以内)
 5-3 研究助成等
区分 年月 名称・題目・機関名等
 5-4 資格・特許等
年月 名称

 6 研究業績
 年度  種類  
種類 著書、学術論文、テーマ等の名称 単著、
共著等の別
発行又は
発表の年月
発行又は発表
雑誌等又は発表
学会等の名称
該当頁 PDF
著書 物語がつくった驕れる平家 単著 2017年2月 臨川書店  
 表示
要旨:
参照リンク:
著書 文化現象としての源平盛衰記 共著 2015年5月 笠間書院  
 表示
要旨:
参照リンク:
著書 日記・古記録の世界 共著 2015年3月 思文閣  
 表示
要旨:
参照リンク:
著書 王朝国家政務の研究 単著 2012年6月 吉川弘文館  
 表示
要旨:平安時代後期の政治は儀礼や先例を重んじる形式的なもので、官吏は国家行政に対する責任感に欠けていた、とする従来の見方に修正を迫る労作。当時の太政官政治の中心とされる「定」や諸国条事定・国解慣行などを再検討して、儀礼化したと見える政務の具体相を明らかにし、太政官政治の実務を担当する弁官局・外記局とその官人の実態を解き明かす。
参照リンク:
著書 後期摂関時代史の研究 (財団法人古代学協会編) 共著 1990年3月 吉川弘文館 34-63  
 表示
要旨:官宣旨は従来の古文書学では、たんに太政官符の発行手続きが簡素化されたものに過ぎないと位置づけられてきた。しかしll世紀中葉以降に官宣旨が多用されるようになる原因は従来説かれてきたような代用品としての使用法ではなく、新たな歴史的状況の展開に対応して太政官に付加された機能についての命令書としての使用法であった。このことにより、これまで副次的な意味しか与えられてこなかった官宣旨が、太政官の新たな機能を示す文書として重要な意義を持つことか明らかとなった。
参照リンク:
著書 王朝国家国政史の研究 (坂本賞三編) 共著 1987年3月 吉川弘文館 129-176  
 表示
要旨:平安時代の国政の中心は陣定であり、諸官庁や諸国からの申請は外記政の場を通して陣定こ上申されていた。しかしその方式も11世紀の中期以降、小槻氏が弁官局の実務を統括する大夫史の地位を世襲するようになると、大夫史は外記政の場を通さす直接上卿の指示を受け、蔵人を通して天皇の裁可を仰ぐという方式が定着するにいたった。こうして、この時期の政務は公的な外記政ではなく、弁官局→上卿→天皇というルートによって処理されるようになったのである。
参照リンク:
著書 古代史研究の最前線 第2巻 政治・経済編下 共著 1986年11月 雄山閣出版 121-133  
 表示
要旨:平安時代の貴族は政治に対する関心を失い、朝廷はただの儀式の場と化してしまったと一般的には理解されている。しかし、これは、中央の政治は各部局の実務官人の上首に請け負わせるという官司請負の体制をとっていたための表面的現象あり、地方の政治は一定の収益と引き替えに国司にその国の支配を請け負わせるという方式をとっていたための表面的現象であった。貴族は関心を失ったために政治から離れたのではなく、重要問題以外の日常的政務には関わらないで済むという体制がとられた結果であった。
参照リンク:
学術論文 『源平盛衰記』全釈(一六―巻五―3) 共著 2021年1月 名古屋学院大学論集 人文・自然科学篇 第57巻 第2号 94-180
 表示
要旨:
参照リンク:
学術論文 『源平盛衰記』全釈(一五―巻五―2) 共著 2020年1月 名古屋学院大学論集 人文・自然科学篇 第56 巻 第2号 75-138
 表示
要旨:
参照リンク:
学術論文 『源平盛衰記』全釈(一四―巻五―1) 共著 2019年1月 名古屋学院大学論集 人文・自然科学篇 第55巻 第2号 302-214
 表示
要旨:
参照リンク:
学術論文 平 安 貴 族 の 美 意 識 ―「 美 麗 」 と 「 優 美 」― 単著 2018年3月 史人 第7号 54-70  
 表示
要旨:平安時代の人々の美意識を「美麗」と「優美」という言葉の用例から検討した。「美麗」は古くから用いられ、その外形や容貌が美しいことを表していた。一方、「優美」は一つのものの美しさではなく、その場の状況の総合的な美しさを表現している。そして「優美」が用いられ始めるのが11世紀頃であることから、優雅な日本の美意識の形成がいわゆる国風文化の時代であり、そのことが国風文化の特徴と言ってよいことを指摘した。
参照リンク:
学術論文 『源平盛衰記』全釈(一三―巻四―3) 共著 2018年1月 名古屋学院大学論集 人文・自然科学篇 第54巻 第2号 59-140
 表示
要旨:
参照リンク:
学術論文 『源平盛衰記』全釈(一二―巻四―2) 共著 2017年1月 名古屋学院大学論集 人文・自然科学篇 第53巻 第2号 151-234
 表示
要旨:
参照リンク:
学術論文 『源平盛衰記』全釈(一一―巻四―1) 共著 2016年1月 名古屋学院大学論集 人文・自然科学篇 第52巻 第2号  
 表示
要旨:
参照リンク:
学術論文 安元白山事件をめぐる「史実」と「物語」の間 <論説> 単著 2015年12月 史人 第6号 72-83  
 表示
要旨:安元白山事件についての『平家物語』の記述を、九条兼実の『玉葉』などの貴族の日記の一次資料を用いて再検討し、史実を明らかにした。
参照リンク:http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/ja/list/HU_journals/AA11350520/--/6
学術論文 『源平盛衰記』全釈(一〇―巻三―3) 単著 2015年1月 名古屋学院大学論集 人文・自然科学篇 第51巻 第2号
 表示
要旨:
参照リンク:
学術論文 『源平盛衰記』全釈(九―巻三―2) 共著 2014年2月 名古屋学院大学論集 人文・自然科学篇 第50巻 第2号  
 表示
要旨:
参照リンク:
学術論文 『源平盛衰記』全釈(八―巻三―1) 共著 2013年1月 名古屋学院大学論集 人文・自然科学篇 第49巻 第2号 75-162
 表示
要旨:
参照リンク:
学術論文 『源平盛衰記』全釈(七―巻二―3) 共著 2012年1月 名古屋学院大学論集 人文・自然科学篇 第48巻 第2号  
 表示
要旨:
参照リンク:
学術論文 二条天皇と後白河上皇の応保元年 単著 2011年3月 名古屋学院大学論集 言語・文化篇 第22巻 第2号 114-122
 表示
要旨:
参照リンク:
学術論文 『源平盛衰記』全釈(六―巻二―2) 共著 2011年1月 名古屋学院大学論集 人文・自然科学篇 第47巻 第2号 107-170
 表示
要旨:
参照リンク:
学術論文 平安・鎌倉時代の「湯治」と温泉旅行 単著 2010年3月 名古屋学院大学論集 言語・文化篇 第21 巻 第2 号 57-68
 表示
要旨:
参照リンク:
学術論文 『源平盛衰記』全釈(五―巻二―1) 共著 2010年1月 名古屋学院大学論集 人文・自然科学篇 第46巻 第2号 81-128
 表示
要旨:
参照リンク:
学術論文 「所悩」の諸相 単著 2008年3月 名学大論集 言語・文化篇  
 表示
要旨:平安時代以降の貴族の日記には、体調不良を示す用語として「所悩」という語が見える。 用例を検討すると、ちょっと調子が悪い程度の体調不良も「所悩」と表現されている一方で、 当時命に関わる病気とされていた二禁でさえも「所悩」と表現されていた。
 「所悩」の部位について検討してみると、皮膚・手・足・胸・腹・歯などほとんど体のすべてに及んでいたことがわかった。部位が多岐にわかるため、その治療法も、鍼・灸などをはじめとして、温水浴や漢方薬の服用など多様であることがわかった。
また、現在でも仮病を使って仕事や学校などを休むことが見受けられるが、この時代においても、何らかの事情で公務を休むに際して「所悩」を理由にしたと、記主自身が日記に記録している例があり、この点においては今も昔も変わりがないことがわかる。
参照リンク:
学術論文 清原頼隆と藤原頼業の間 単著 2007年3月 名学大論集 言語・文化篇 18-2 108-97  
 表示
要旨:官務(大夫史)・局務(大外記)と並び称せられながら、その職の「世襲」のあり方には相違があったこと。大外記に任命されるためには前例を熟知する「重代の稽古」と、上層貴族との個人的関係=「引きたつる人」の二つの要件があったこと。以上の点を本稿では明らかにした。
参照リンク:
学術論文 『源平衰退記』全釈(二-巻一-2) 共著 2007年1月 名学大論集 人文・自然科学篇 43-2 90-112  
 表示
要旨:『源平盛衰記』巻一の「鴻門の会」から「兼家三妻錐」までの、原文校訂と、異本との校異、注解・研究文献とを具体的に考察したもの。それぞれの担当部は、四人の共同作業によるため、抽出は不能。
参照リンク:
学術論文 「重任」と「遷任」 単著 2006年3月 名学大論集 言語・文化篇 17-2 70-63  
 表示
要旨:本稿では従来、厳密に理解されないまま放置されてきた「重任功」・「重任宣旨」・「遷任功」・「遷任宣旨」について、史料に基づいて整理を行った。その結果、受領が「成功」を行ってもう一任期の再任をはかることを「重任」といい、一任期(受領の場合四年)までの期間の延長をはかることを「延任」といい、そして現在の官の一任期終了後、またどこか別の官(受領でいえば他の国)への異動が約束されることを「遷任」というなどの区別が明らかとなった。また、 重任や遷任は、「重任宣旨」「遷任宣旨」という手続きを踏んで実施された。これらの宣旨は、本来、現在の任期の終了が近づいてくるとこれらの「宣旨」が発行されるのが、正規の方法であった。しかし、就任間もない時期に、将来を権利を保障する約束手形としての宣旨も数多く存在した。
参照リンク:
学術論文 『源平盛衰記』全釈(一 - 巻一 -1) 共著 2006年1月 名学大論集 人文・自然科学篇 42-2 94-114  
 表示
要旨:※業績報告書待ち
参照リンク:
学術論文 外記局の停滞 ―軒廊御卜の二種類の召集をめぐって― 単著 2005年3月 名学大論集 言語・文化篇 16-2 73-84  
 表示
要旨:軒廊御卜は、平安時代において国家機関としての最高の占卜の場であり、その場への諸官人の召集は本来外記局によるものとされていた。しかし、11世紀中頃以降、弁官による「兼日召集」と外記による「当座召集」の二つの召集系統に移行していった。さらに、12世紀前半期にはその実務は弁官局の職務となり、外記日記の衰退にも現れているようにこの時期、外記局は停滞の局面を迎える。しかし、藤原頼長・信西らの旧儀復興政策により、外記局は人事・儀制の総括官庁として地位を確立することになった。
参照リンク:
学術論文 藤原伊通論 単著 2004年3月 名学大論集 言語・文化篇 
15-1・2合併号
 
 表示
要旨:大治五年十月、中納言昇進から漏れた藤原伊通論は、参議など三官を辞してしまう。その理由は、「非道理的な長実の昇進に対する嫉妬心」からとか、「選に入らぬことを恥じてか、憤慨」したからといった、単純な表層的なものではなく、大治五年当時参議のなかで飛び抜けて政務に精勤しながらも叙位や昇進が抑えられるなど、合理的な判断に基づく規則・原則の厳守を原理とする伊通には、耐え難い状況がそこに現出していたからであった。伊通が清原頼業から「外記之事」を支えたと評価されたのは、「叙目執筆時」なる書を三十余年かけて「殊入巧抄出」したり、「先達」を訪れて聞き取り調査などを行い、外気局の重要な職務のひとつである叙目の作法の確立に意義があったと認められたからであろう。
参照リンク:
学術論文 中学校社会化歴史的分野教科書の比較・検討 ―摂関政治を中心に― 単著 2003年3月 名学大論集 言語・文化篇 14-2 135-148  
 表示
要旨:新教育課程によって、2002年度から使用が開始された中学校社会化歴史的分野の教科書の記述を比較・検討し、それぞれの特徴と全般的な問題点の指摘を行った。学習指導要領の変更により因果関係に関する説明が省略される傾向があることにより、教科書の記述は歴史的事象を断片的に説明していく傾向が強くなり歴史をひとつの流れとして、中学生が学習していくのに困難な状況が生じている。
参照リンク:
学術論文 平安貴族の時代意識 単著 2002年3月 名学大論集 言語・文化篇 13-2 108-118  
 表示
要旨:石田一良氏は『愚管抄』を素材として、平安末期の貴族が「上古」・「中古」・「近代」という時代区分観を持っていたとされているが、『愚管抄』の筆者慈円の兄九条兼実の日記『玉葉』を検討してみると、それ以外に「近古」という時代区分があることがわかった。兼実は、11世紀中葉の時期までを「上古」、11世紀後半頃を「中古」、12世紀始めから半ば頃までを「近古」、12世紀中葉以降を「近代」と認識していたことを指摘した。この他、『小右記』・『中右記』の時代区分観についても論究した。
参照リンク:
学術論文 王朝貴族日記の素材としての情報 ― 古記録の死角― 単著 2000年1月 名学大論集 社会科学篇 36-3 160-170  
 表示
要旨:平安から鎌倉にかけての歴史の叙述の素材として、貴族の残した古記録(日記)は、重要なものとなっている。しかし、『続日本紀』などの正史とは違って、そこに見える公事・儀式・政務は、必ずしもその全体像を示しているわけではなく、古記録(日記)の記主の視点というフィルターがかかっていることに留意しなければならない。本稿では、現実には九社奉幣でありながら古記録に八社奉幣としか見えない事例などを示した。
参照リンク:
学術論文 「或人云」・「人伝云」・「風聞」の世界 ―九条兼実の情報ネット― 単著 1996年5月 中世史研究会「年報中世史研究」(21)  
 表示
要旨: 九条兼実の日記である『玉葉』の記述の検討により、『玉葉』に「或人云」で記されるのは非公式のものではある権力者の内部に食い込んだ人物からの情報、「人伝云」で記されるのは兼実の屋敷にもたらされ取り次ぎの職事を介してもたらされる情報、「風聞」で記されるのは世間に流布している噂を、それぞれ表していることが明らかになった。これらのことから、貴族たちが重層的な情報ネットを有していたことがわかった。
参照リンク:
学術論文 安元三年の近衛大将人事 ―『平家物語」と古記録のはざま ― 単著 1995年7月 名学大論集 人文・自然科学篇 32-1  
 表示
要旨:従来、平氏政権期の政治史は『平家物語』にもとづいて語られることが多かった。しかし 『平家物語』はあくまでフイクションであり、それに基づいて歴史を語ることは本末転倒である。むしろ、当該期の貴族の日記を基本史料とし、それと物語をつきあわせることによって、歴史の実像があきらかになり、物語の意図も明確になるのである。本稿では、近衛大将の人事をめぐる『平家物語』の記述が、実際よりも意図的に平家の傲慢さを印象づけるよう叙述されていることを明らかにした。
参照リンク:
学術論文 王朝国家期政務研究の現状と課題 単著 1994年1月 歴史科学協議会「歴史評論」(525)  
 表示
要旨:王朝国家期の政務に関わる倉本一宏、美川圭、井原今朝男氏の研究の問題点を指摘し、それに対する私見を述べた。三氏に共通する問題点は、摂関期政治の特質の解明の不十分さにあり、とくに後者二氏はその上に院政期の研究を積み重ねてしまっているため、院政期国家の「特質」が曖昧なままになってしまっている。
参照リンク:
学術論文 高校日本史教科書と史料 単著 1992年12月 名学大研究年報 5 161-172  
 表示
要旨:高等学校の「日本史」の教科書で使われている、古代・中世関係の史料を分析し、その使用頻度と特徴的な使用方法について考察を加えた。また、大学入試の史料問題に用いられている史料と高等学校教科書採用の史料との関連についても調査を行った。
参照リンク:
学術論文 王朝国家実務官人と局務家・官務家 単著 1991年11月 名著刊行会「日本学」(18)  
 表示
要旨:平安時代の王朝国家における政務処理の中枢をになっていた、弁官局の官務家小槻氏と外記局の局務家清原・中原氏について、その世襲の内容と世襲成立の時期について検討を加えた。その結果、11世紀半ばから後半にかけての時期が画期となっていたことが立証できた。この時期が王朝国家の政治にとって重要な時期であることが確認された。
参照リンク:
学術論文 除目の「道理」 単著 1990年7月 名学大論集 人文・自然科学篇 27-1  
 表示
要旨: 本稿は、平安時代の貴族の日記に見える除目のときの「道理」という語に注目し、その語の忌みと帰属の意識について考察を加えたものである。除目がとんな基準で行われるかは、それが貴族たちの最大の関心事であったことから「道理」を基準に行われることを望んでいた。「道理」とは、家格・才学・年功・天皇家との外戚関係をさす概念として用いられていた。家格や外戚関係をさす概念としてなどのように現代人の感覚からは「道理」と思えないようなものまで含んでいた。
参照リンク:
学術論文 高倉立太子について 共著 1990年1月 名学大論集 人文・自然科学篇 26-2 5-22  
 表示
要旨:本稿は憲仁親王(のちの高倉天皇)の立太子をめぐる政治的状況を考察したものである。立太子の時の東宮官人の構成を見ると、高倉の母が平滋子であるため平家一門が非常に多いこと、その娘が高倉の乳母である藤原邦綱が権大夫に異例の抜擢をされていることが注目される。その一方で、人事には後白河上皇の意向も考慮されており、高倉立太子は平家一門と後白河上皇というこの二大勢力の政治的妥協の産物であったといえる。
参照リンク:
学術論文 官務小槻隆職について 単著 1989年7月 名学大論集 人文・自然科学篇 26-1 67-88  
 表示
要旨:本稿は、王朝国家期の太政官の実務機関である弁官局の大夫史職を世襲した官務家小槻氏の治承・寿永内乱期の当主小槻隆職について考察を加えた。小槻隆職はその所有する文書群が焼失した際に国家の損失であると評されたように、文書管理を国家に替わり委託されていた。また、ときの関白九条兼実が後白河上皇の諮問に答える際に、事前に自宅へ召されて前例などを尋ねられているように当該期の政治の裏面において重要な役割を果たしていた。
参照リンク:
学術論文 官司請負制下の実務官人と家業の継承 単著 1985年12月 古代学協会「古代文化」37巻12号  
 表示
要旨:本稿は、平安時代の各部門の博士家の継承と、その博士家による実務官人養成について考察を加えたものである。平安時代前半の実務官人の出自は地方の郡司層などがほとのどであったのに対し、12世紀ころになると、清原、中原、三善など博士家の姓を持つものがほとんどとなる。これは、地方出身者が、まず博士家の門弟となり、自己の姓を棄てて博士家の姓をなのって官界に進んだためであった。また、博士家の継承も血統による世襲ではなく、こうした地方出身の有能な門弟を猶子として行われることもあったということを明らかにした。
参照リンク:
学術論文 官務家成立の歴史的背景 単著 1983年3月 史学会「史学雑誌」92編3号  
 表示
要旨:本稿は平安時代の中央政府の実務処理部門として位置づけられていた弁官局の上官たる大夫史の地位を世襲した小槻氏について、考察を加えたものである。平安時代後期には、実務官人の遂行上生じた公文書をその担当者が自己の手もとに保管する慣行があり、貴族杜会総体としては各々の「家」が文書の保管を請負うという体制になっていた。小槻氏は本来は算道を家業とする卑氏族にすぎなかったが、租税の計算とその関係を認められ、大夫史の地位の世襲を公認され官務家として11世紀の中葉に成立したことを明らかにした。
参照リンク:
学術論文 「中右記」における“近代”の意味について 単著 1981年5月 古代学協会「古代文化」33巻5号  
 表示
要旨:本稿は、中御門右大臣藤原宗忠の日記である『中右記』にあらわれる「近代」の語に注目し、当時の人間にとって自己と同時代と認識される「近代」の範囲の確定を試みたものである。『中右記』の一「近代」の用法のうち、とくに政務に関わるものを検討すると、その範囲はll世紀中葉以降を指しており、それはll世紀中葉の時期に政治支配方式の転換が行われ、これを意識して、その時期以降を藤原宗忠が「近代」と意識したことを明らかにした。
参照リンク:
学術論文 国司申請荘園整理令の存在 単著 1979年12月 広島史学研究会「史学研究」146号  
 表示
要旨:本稿は、従来、一括して「荘園整理令」と考えられてきた点を批判し、全国を対象として国家の政策の一環として発令された荘園整理令と新任の国司が任国に赴任する際に行われる国司申請雑事の一ケ条として発せられた一国対策の荘園整理令の区別を明確に行うことを提案し、この両者を混同し、一国対象のものを素材として国家の政策を論ずることの誤りを指摘した。
参照リンク:
学術論文 諸国条事定と国解慣行 単著 1979年11月 日本歴史学会「日本歴史」378号  
 表示
要旨:本稿は、平安時代の国司が中央政府に対し臨時的に申請を行い、裁許を求めていた国司申請雑事に注目し、次第に新任の国司か任国へ赴任する前に多くの項目を一括して申請を行う通例に移行し、さらには、実質的な意味を持たなくなった事項も申請し、中央政府も何の審議もせすに前例さえあれは許可するというように儀式化していく過程を明らかにし、あわせて平安時代の貴族達の地方政治に対する意識の変革と政治姿勢の関連を考察したものである。
参照リンク:
口頭発表:研究発表 「鬱」の記録=平重盛の「鬱」を緒として- 単独 2012年12月 国際日本文化研究センター  
 表示
要旨:
参照リンク:
口頭発表:研究発表 曽我 良成 「『心』の記録としての日記―喜怒哀楽、花鳥風月、 単独 2011年2月 国際日本文化研究センター  
 表示
要旨:
参照リンク:
口頭発表:研究発表 王朝国家定期の弁官局と外記局 単独 2003年10月 広島史学研究会  
 表示
要旨:
参照リンク:
口頭発表:研究発表 鬼間定の成立とその性格 単独 2001年11月 広島史学研究会  
 表示
要旨:王朝国家期には、御前定、殿上定、陣定など様々な形態での議定が存在した。本報告では、早川庄八氏によってその存在が注目された鬼間定について、新たに検討を加えた。早川氏は13世紀の事例に着目されたが、空間としての鬼間は清涼殿成立時から存在しており、本報告では摂関期から院政期にかけて、鬼間の「場」としての性格を検討した。その結果、鬼間は女房達の昼御座への入り口、また摂政・関白の控え室として使用されてきたことなどがわかった。この摂関の控え室という用例から、摂関が非公式に公卿を接見したりすることが行われ、さらにそこでの議定が行われるに至ったのである。
参照リンク:
口頭発表:研究発表 平安後期の弁官局と官宣旨 単独 1989年2月 中世史研究会 名古屋中小企業センター  
 表示
要旨: 従来の古文書学の研究では、太政官符の発給手続きを簡素化した代替的なものとして説明されてきた。しかし実際の記録を調査してみると確かにそのような代替的な用法もあるものの、官宣旨特有の用途((1)権門間相論の裁定,(2)一国平均役の賦課・免除)のものがあり、それは11世紀半頃弁官局の機能として加わったものであった。
参照リンク:
口頭発表:講演 『源平盛衰記』のまなざし―応保元年人事をめぐる後白河院政と二条親政の関係― 単独 2010年7月 國學院大學  
 表示
要旨:シンポジウム「源平盛衰記全釈から見えてくるもの」
平治の乱以降の所謂二条親政期について、古記録などの史料では知ることの出来ない記述が 『源平盛衰記』には見られる。今回の報告では、「巻二」の独自記事である応保二年九月十五日人事の記述について、①後白河院は政務に関わらないようにと平清盛が「申し行」ったこと、②後白河が平時忠・平信範を推薦したのに対し二条は藤原長方・重方を登用したということ、以上二点について史実との整合性を検討した。
  その過程で、「アナタコナタ」(『愚管抄』巻五)しているはずの清盛の軸足は、従来言われているよりも遙かに二条側に重心が置くものであったこと、院司として名を連ねているからといって院と密着した関係の近臣であると即断は出来ないこと、などが明らかになった。
 検討の結果、①・②の二点とも『山槐記』等に見える当該期の関係記事と整合的に適合し、この部分の『盛衰記』の記述は、史実に近いものであることが確認できた。他の『平家物語』諸本には見られない独自記事ににおいて、このような史実性を持つということは、『盛衰記』の「作者」がかなり精度の高い資料を参照できる状況にあったことを示している。  また、その頃の二条の後白河に対する言動を「孝道ニハ大ニ背ケリ」と述べる価値観やその用語が、当該期のものではなく、十三世紀以降の価値観を示すものではないかとの見通しも述べた。



参照リンク:

 8 学外活動
 8-1 本学以外の機関(公的機関・民間団体等)を通 しての活動
就任年月 退任年月 機関名、役職名等
2000年4月 2016年3月 小牧市文化財保護審議委員
 8-2 学会・学術団体等の活動
種類 就任、受賞等年月 退任年月 内容(学会・団体名、受賞名、役職名等)
学術団体等 2000年4月 広島史学研究会県外評議員
学術団体等 2010年4月 2014年3月 国際日本文化センター共同研究員

.